大震災とひきこもり(朝日新聞の記事紹介)

 講演連載に横入りしますが、朝日新聞(2015年3月11日)に次のような記事が掲載されました。ここ登場する佐々木先生のお話をある集いでうかがう機会があり、心を揺さぶられましたのでご紹介します。奥様と次男さまのご冥福を心からお祈り申し上げます。

前へ 東日本大震災4年「仁也の苦しみ、やっと気付いた」佐々木義仁さん  ◇岩手・陸前高田
公民館の一室に、女性の涙声が響く。
 「14歳の娘が引きこもって1年半です。これからも続くのかと思うと、正直、耐えられるかなって」 佐々木善仁(よしひと)さん(64)がうなずきながら、じっと女性を見つめる。
 2月下旬、岩手県大船渡市で、不登校と引きこもりの子どもを持つ「親の会」が開かれていた。月に1度、悩みを打ち明けあう。
 会の事務局長を務める佐々木さんは、小学校の元校長。4年前までは、同じ悩みを持つ親の1人だった。
 教頭を9年、校長を7年務めた。部下には「家庭を大事にしなさい」と言ってきたが、自分は朝6時半に家を出て、帰宅は夜9時ごろ。週末も行事で、息子たちと遊んだ記憶はほとんどない。
 次男仁也(じんや)さんの引きこもりは中学2年で始まった。陸前高田市から釜石市への転校がきっかけだった。妻のみき子さんから相談されたが、真剣に耳を傾けることはなかった。次男が部屋で暴れ、壁に穴が開いていることも知らなかった。
 そんな自分に反発した長男の陽一さん(34)には「仕事で精いっぱいだ。食わせてもらってるのに生意気言うな」と怒鳴った。
 単位制高校に通った3年間は好転の兆しが見えたが、卒業後に次男はまた引きこもるようになった。陸前高田市に戻った8年前、妻はこの地区で「親の会」を立ち上げた。
 会への送り迎えの車中で、妻はいつも言った。「退職したら手伝ってね」
 震災の日。佐々木さんは陸前高田市立広田小の校長で、退職目前だった。妻と次男が行方不明になったが、避難所になった学校で児童の安否確認に追われた。1週間後に全員の無事がわかるまで、2人を捜せなかった。
 その1週間後。長男から連絡を受け、遺体安置所で仁也さんと対面した。髪が伸びた、色白の28歳。3週間後、57歳だったみき子さんの遺体も見つかった。
 次男は2階の部屋から一度出たが、避難を促す妻や長男に「逃げない」と言って部屋へ戻った。人に会うのが怖かったのだろう。引きこもりでなければ、死なずにすんだかもしれない。
 避難が遅れた妻も波にのまれ、長男だけが一命を取り留めた。
 震災から1カ月後。「親の会」を受け継ぐことにした。次男に向き合ってこなかったことへの後悔。妻が立ち上げた会を続けることが、せめてもの罪滅ぼしになればと思った。
 だが、参加してみると、悩みを打ち明ける親たちにどう声をかければいいのかわからなかった。
 長男と住む市内の借家にある次男の遺影は、高校の卒業アルバムのものだ。18歳のままの顔を見ながら、次男と妻のことを思った。
 妻は専門書で引きこもりを勉強し、県外の研修会に足を運んだ。次男は規則正しく食事し、毎朝、トイレと風呂の掃除をしていた。自分も震災後、妻のように勉強を始めた。次男のようにトイレを磨いているとき、思った。社会に出られない自分に苦しみ焦る中、できる精いっぱいの「仕事」だったのではないか。
 引きこもる子の多くは怠け者ではなく、繊細で人の気持ちに過敏だから外に出られなくなる。新たに得た知識も次男と重なった。
 次男のことを今は、生きてさえいてくれたらと思う。でも親の会では、「いっそ子どもと死にたい」と訴える母親たちの声を聞く。
 親たちの悩みを妻や息子の気持ちと重ね合わせるうち、自分の思う言葉が少しずつ出るようになった。
 「子どもたちも苦しんでる。今は心の充電期間だと思ってあげればいいんだから」
 涙を流す母親に、そう語りかけた。
                                   (杉村和将)
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